これであなたも事情通!知っておきたい吉原の歴史

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吉原遊廓には五つの稲荷社が祀られていたが幾度も災害に遭遇した

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吉原の歴史的な名所を押さえておこう

吉原神社が創建されたのは1872年と、吉原遊廓よりも後になりますが、遊廓が造られた当初から守護神として祀られていた五つの稲荷社を合祀しており、吉原遊廓の鎮守神として位置づけられています。
さらに1935年には、吉原弁財天を合祀しています。
吉原弁財天は遊廓付近に形成された花園池(弁天池)に祀られていました。
この池は遊女の逃亡を防ぐ役割も果たしていましたが、関東大震災の際にはその延焼により、遊廓内で逃げ場を失った遊女ら多くの人々がこの池で溺死するという悲惨な出来事がありました。
こうして溺死した人々を供養するため、吉原弁財天の近くに吉原観音という観音様が建てられました。

吉原神社や吉原弁財天はともに遊女らの信仰を集めていたことから、女性の願いを叶えることで知られるようになり、現在も多くの参拝者が訪れています。

遊廓の構造上の欠陥が被害を拡大させていた

遊廓という閉鎖的な構造の弊害が露呈していました。
遊廓内は木造作りの遊女屋が密集しているうえに、夜間に火の使用が多いため、全焼するほどの大きな火事が数年に一度の割合で起きていました。
さらに、全壊するほどの大きな地震に見舞われることもあり、その度に奇跡的に再建されてきましたが、当時の防災対策が不十分であったことは否めません。
とりわけ、安政江戸地震や関東大震災、東京大空襲では、遊廓から逃げ遅れた遊女らが数多く犠牲となり、浄閑寺で合葬されたそうです。
浄閑寺は吉原の近くにあり、安政江戸地震で亡くなった多くの遊女らがそのお寺の墓穴に投げ込まれたことが発端で、投げ込み寺と呼ばれています。
遊廓の犠牲になったとも言える身寄りがない遊女らは、当時のお寺では対応しきれないほどだったこともあり、このような扱いで葬られたそうです。

取り上げるのにためらいもありますが、これも吉原の歴史として、留めておきたいところです。